連休明けのメンタルケア
連休明けである。気が重いのは僕だけではないはず。
朝食後、水筒にお茶を入れながら
行きたくない気持ちをごまかすように妻にふざけて
「会社行っても何すりゃいいんだろね、忘れちった」と言った。
すると妻からは
「座っていればいいと思うよ」という返事が返ってきた。
ハッとしたのと同時に肩の力が抜けてとたんに楽になった。
出社を前にして頭の中に湧き出てきてモヤつかせていた数多の「やらなきゃ」達が、
「座ってるだけでいい」というシンプルかつ超低いハードル1個に置き換わったことで
かなり頭ン中がクリアに、そして楽になった。
今日は定時まで座ってればいいか。
その心持ちでまずは会社に向かおう。
席に着いたらどうせなんだかんだ、どっかでスイッチも切り替わる。
もし、席についても微塵もやる気がわいてこなければ、
本当に座って適当にすごしてやりすごせばいい。怒られたらしょうがない、そんときゃ謝ろう。
そして定時になったらとっとと帰って、
「今日は座ってた」という朝掲げた目標を達成した事実をかみしめればいいのだ。

無音という名のキャンバス
今日はスマホを家に忘れてきた。
Bluetoothを使って車内で流していた音楽も今日はなく
代わりのラジオもつけず、無音の通勤中の車内。
信号待ちの間、鳥の鳴き声が車窓越しに聞こえてきた。
市街地の道路の真ん中、鳥の声も聞こえるんだなとちょっと驚き、なんとなく窓を開けてみる。
すると窓を開けた瞬間、鳥の音だけでない、
車のタイヤ音、トラックのブレーキ音、風の音、一斉になだれ込んできた。
当然ながら、窓を閉めて音楽を聴いていたらこれらの音は全部聞こえてこない。
何気なく生きているつもりで、自然と逃していたものもあるんだな。と普段の自分の生活に顧みる
好きな音楽やラジオ、ポッドキャスト。何かしらのお気に入りの音を聞いていると
外から自然に流れてくる音に対して気づきにくくなる。
音に限った話ではない。
目にする情報にしても、スマホを見ていると遠くの情報には敏感になるかもしれないが
目の前の風景に関しては鈍感になる。
好きな音源、情報だけに触れていたら、自分の好みの色や柄で毎日を塗りたくっていて、
だんだんとその色が自分自身に沈着していく感覚がある気がしてきた。
反対に自然と聞こえてくる音は彩りも様々で、予期せぬ色彩や表現をみせてくれることがある。
もちろん、外から聞こえてくる音全てがすばらしいということではなく
クラクションや街頭演説、工事の音、雑音だって多い。
反対に、音楽だってすばらしいのはわかっている。
それでもたまには無音にして、自分のキャンバスを白くしてみてもいいのかなと思った。
用意されたコンテンツや情報は整ってはいる。それもいいけど
目の前にある意図してデザインされていない音や景色、原色を自身に流し込むのもいいのかもしれないな。
玄米の方が多少消化しにくいし雑味があるかもしれないが栄養がある。
スマホがない日もいいもんだ。どうせ持ってても誰からも連絡は来ないし。

ブログいつ書く問題とプロの条件
更新のタイミングがこの期に及んで定まらない。
仕事終わったら、家に直行。
ご飯の後は寝かしつけやらなんやら。
なんなら自分が子供に寝かしつけられる。
朝は朝とて、朝活する柄でもない。
一体ブログってのはいつ書けるんだろうか?
つくづく、書き続けるには『ネタ数』×『時間の』というのを思い知らされる。
それらはつまり『ネタを見つけられる感度』×『時間を捻出するタイムマネジメント力』or『更新を習慣化する仕組み作り』な訳で、
要は書き続けられる能力が不足してるんだ。やる気の問題じゃあない。
どこかで見た、「レベルの高いものを単発で出すのは割とできる。プロがアマと違うのは『一定レベル』のを『コンスタント』に提供できるところだ」と。
別に物書きのプロになろうって話ではない。
分野問わず、何かしらのプロってのはこの性質を少なからず持っているんだろうな。全てのプロに通ずる話。
話がそれた。
いつブログを書こうかなって話をしてたはずだったよね。
仕方がない。
会社で隙をみながらコソコソ書いていこう。
逆だな、ブログの合間に仕事でもしてやるか。
そんくらいの姿勢、仕事に対するプロ意識。
筆圧も弱けりゃ、筆も遅い
僕は筆圧が弱い。
自分がノートを見返すとうすーい黒鉛の線がひょろひょろしている。
筆圧が弱いと筆先を紙につける離すという動作が曖昧になるので、線が異常に短くなったり線同士の距離間がおかしかったり。
要は汚い文字になる。
結局、ノート全体を見ると1画1画が不明瞭で漢字の直線も直角も「直」には程遠く、か細く弱々しく頼りない汚文字が並ぶのである。
意志の弱さ、自信のなさ、雑さがよく字に表れているなと思うばかりだ。
試しに力を込めて書いてみる。
力のかけ方が下手なのでシャーペンの芯がぺきぺき折れる。
ボールペンに切り替えるかと思うのだが、この調整の効かない力加減なら、
ペン先がすぐにダメになるんでないかとか、下の紙に筆跡が映るんでないかとか
余計な心配をしてしまい、文字を書くことに意識が向かなくなる。
その点パソコンに救われているところは多分にある。
キーボードをたたく力加減に関係なく、濃さもサイズも均質な読みやすい文字が丁寧に連なってくれる。
とはいえ依然、何を書こうかなという迷いはあるし、書き始めてからの書いては消しての行ったり来たりは変わらない。
ツールを変えても結局自分は変わらないのだ。
高2の時、物理の授業で隣に座っていた人の筆圧の強さをまだ覚えている。
そしてその筆圧の強さにいまだにどことなくあこがれを持っている。
彼の文字は隣の席からでも何が書いているか認識できるほど強いコントラストで白い紙に黒々と並んでいた。
鉛筆で書かれた太く濃い文字からは文字の力強さだけでなく書き手のバイタリティも伝わってくる。
かな漢字英数どれであっても、殴り書きであってもはっきりと主張する字、筆圧の強い文字には迷いのなさが感じられる。
きっとこの文字を書いている人は人生に対しても迷いなく、自信をもって自分の道を歩むのだろう。
隣の席からノートを見た時にふとそう感じた。
彼は今何してるんだろう。
自分の文字を見返してる時、ほとんど喋ったことのない名前も忘れた彼のことを思い出すことがある。

『外でしたい』というか『内でするな』
おうちでパソコンやスマホを前にしても何を書こうか浮かんでこず、ブログは一文字も進まない。
何を書こうか考えずに編集画面を開いてみても、ネタがないのだから書きようがない。
かと言って、何も書かずにブログを眠らせると常態化してしまう。なんでもいいから書くか。さて何にしよう。
通勤中の車の中でラジオを流して景色を見ながら考えてみたり、お昼休みに花びらが舞う桜並木沿いを歩いてみても
なかなかヒントは見つからない。諦めて職場で仕事をしていてたらなぜかなんとなく書けそうな気がちょろちょろと湧いてくる。
よし、メモでもしてあとで休み時間や夜に自宅絵書いてみるか。
いや、それでは時間が足りない。旬を逃すと書く意欲も考えていた表現なんかも失ってしまう。
しょうがないバレないように下書きでもいいからつくるか
大体こんな感じで
何か書きたいな、なに書こうかなと思っているとグルグルと同じ思考を繰り返し、アイディアが浮かんでこない。
仕事中など書かなくちゃという気負いがないときのが、降ってきやすい。
アイディアの芽なんてのはいつ出てくるかな、もっと肥料をあげた方がいいかなと気にしすぎると逆に出てきにくい。
スマホなんか見て必死でネタ探しなんてしていても、そこは荒波打ち付ける岸壁のごとく雑草すら生えてこない。
ネットブラウジングやSNSを利用しているときは、受動的なスイッチに入っているのも影響しているのかもしれない。
やはり仕事してるときみたいに、能動的に動きつつ、ネタ探しから頭を離れさせた環境の方がブログ作成にとってはいいように思う。
とまあそんなことを仕事もそこそこにキーボードにたたいているのだが
そうはいっても仕事ではないときに更新できるのがベストであるとは重々承知だ
なるべくならブログ更新は「業務時間『外でしたいこと』」だよね。
というか『内でするな』
今週のお題「外でしたいこと」

よし、物欲を持とう。
さいきんはシンプルな生き方が推奨されたり
ミニマリストよろしくモノを減らして、モノに捉われない生活がもてはやされたりしてる感がある。
別にその風潮には異論はなく、各々が気に入った生活スタイルを幸せに過ごしているならそれはそれでいいと思う。
かくいう自分もモノが多くなるのはあまり好きではない方だし、割と質素な暮らしをしている。
もともと物欲が少ないっていうのものある。
以前会社の人とボーナスで何を買うかという話をして、そこから歳を取ると物欲が無くなるという話を聞いた。
昔からそれほど物欲がない自分にとってはピンとこない。
どう変わるんだろ?何も変わらないのかな。
そんな疑問から、「自分はこのまま物欲が湧くことなく『ほしいもの』でなく『必要なもの』しか買わないのか。とも思った。
そう考えると、このままな少ない物欲がさらに減っていくことに急につまらなさを感じた。
どことなく少し味気なく、無色な人生であるイメージ。
物欲はともすると悪しきものと捉えられがちで、少ない方が良しとされる傾向にあるけれど
モノが欲しいというのは、いい面もあると思う。
新しいものに目を向ける興味、好奇心、それを所有・使用した時の期待感。想像力。
物欲を肯定することで、モノに対して関心が持てる。世の中の目に映るものの中で「いいな」と思える対象が増えるのだ。
よし、物欲をもとう。ミニマリズムを逆流するのだ。
少しはワクワクすることがあるかもしれない。
まずはパジャマを畳んでみた。
きちんとした生活にはあこがれるけれど、なかなか習慣化しない。
車のトランクにはなにかしら家に持ち運び忘れたものが常駐しているし。
ある分野において秀でた才能を持っているわけでもない自分にとっては、
これらの特性は「個性」と認められず単に「だらしがない」という欠点で終わる。
少しは整理整頓できる人になって欠点をマシにしておこうかなと思ったとき、
自分を変える簡単なきっかけとして
『朝起きた後の、パジャマを畳むことから始めるといい』と聞いたことがある。
普段脱ぎっぱなしにしがちなパジャマ、それを朝着替えたときに畳むのだ。
すると今度は自然と起きた後のベッドも整えるようになる。
そして寝具回りだけでなく家のいろんなところで、正していく、整理整頓するという行動が波及していき、
生活全体がきちんとなるのだという。
なるほどね、ハードルが低いのはいい。
パジャマからその他の活動に及ぶ波及性が実際どれほどであろうと、失うものはほとんどない。
というわけで、
今朝これを実践してみた。
朝食後に身支度を整える際、いつもはどうせ夜着るからと適当に放っておくパジャマを畳んで棚の上に重ねてみた。
なるほど、ちょっと自分が「ちゃんとした人」になったように思う。
ここまでやったら布団も正しておくか。自然な流れできるもんである。
明らかに意識と気分が変わる。
清々しい気分だ、春風が余計に気持ちいい。
昨日の自分とは違うんだぜ、今日からおれはきっちり人間だ。
「A型っぽいですね」って言われてやるんだ。
そんなことを考えながら出勤する車の中で、ひげを剃るのを忘れていたことに気づいた。
まあ仕方ない、イレギュラーな行動を取り入れた際には何かが抜けちゃうこともある。
マスクを着けてりゃ大丈夫。と思いダッシュボードを開けたら
マスクの箱がちょうど空になっていた。
ルームミラーに映る無精ヒゲの自分が、だらしなさの権化に見えた。

※今週のお題「きれいにしたい場所」