ぬめりブログ

いろいろ書いてみたり、憧れてみたり、届かなかったり。かびくさい名前ですが、ゆっくりしてってくだせぇ

「スピードよりクオリティ」癖

質と早さ、両立できるのが望ましい。言うは易し。
小中学生の頃はむしろスピード重視、そそっかしいと言われようと多少ミスがあろうと、なんでもすぐに終わらせた。
提出期限の直前に仕上げるということはほとんどなかった。「早く終わらせて遊ぶ」という大目標のために課題が与えられたらすぐに取り組む癖があった。
ところが高校くらいから質の高める方向に価値を置くようになっていた。そうなったのはおそらく映画監督の影響。
一時期、映画鑑賞を趣味としていた時代があり、その映画をつくる映画監督の姿勢にあこがれていた。
脚本に衣装やセット、CG、現場のカメラワークや役者の立ち回りに至るまですべてを完璧にする完璧主義者。まるでスーパーマンだ。
かっこいいと思い、自分もそうしたいと思った
しかし問題がある。完璧にする方法がわからないのだ。どこをどう意識を傾けることが完璧につながるのかわからない。だからミスや粗をなくすために、注意深く進めるという方向性をとる。
注意深く進めるために時間をかける。でも時間をかけるにしても、どの部分にかければわからない
下手な時間のかけ方をしてるので、成果物のクオリティはたいして上がらない。
しかし質を上げたいという気持ちは変わらないので、段々と無意識のうちに「質を上げる」→そのために「時間をかける」、という関係性ができてしまう。
そしてさらに、何をやるにも「時間をかけて質を上げる」ことを考えが定着してくる。
こうなると「何かに取り組む」→「時間をかかる」→「エネルギーを使う」というイメージもできてしまい、しだいに「億劫」「めんどくさい」、「気合が必要」という負のイメージもつきまとい、腰が重くなる。結果取り組むタイミングが遅れる。
スピード(特に初速)が低下していき、かといってクオリティ自体は一向に上がるわけでもない。
かくしてスピードも質も低いアウトプットを輩出するニンゲンが出来上がる。
 
この仕事の姿勢、もしそば屋をしてたなら
 
過去の自分なら、注文が着次第、間髪入れずそばを打ちゆでて、地図を見るのもそこそこに岡持ちにソバを乗せすぐに自転車をかっ飛ばしていたはずである。旨いかはわからない、ただし早い。
 
一方現在の自分の場合、出前の連絡を受けた後、おいしいソバの打ち方を考えて、時間ぎりぎりできあがったら、そこから地図とにらめっこし最適(のつもり)のルートを考える。
そのあと配達車の揺れがないように整備して、着ていく服なんかも吟味、あれこれ準備を時間かけてると時間は過ぎてしまう。
出発が遅れながらも車に乗り込んだと思ったら、省エネ運転でトロトロ進んでいく。しかも途中でコーヒーを買いにコンビニに寄る始末。
ひどいときは、そのコンビニで雑誌を立ち読みしながら「どこでもドアがあれば早く着くのになぁ」ってぼやいてる。
そのうち、お店のカギをかけ忘れたことに気づいて、戻ったりするぞ。
 
こう書いていると、自分の仕事はだんだんクオリティやスピード以前の問題のように思えてきた。
「おいしいお蕎麦を早くお届けしたい」という精神がそもそも失われている恐れがある。
スピードやクオリティの前に、「熱」がないのかもしれない。