ぬめりブログ

いろいろ書いてみたり、憧れてみたり、届かなかったり。かびくさい名前ですが、ゆっくりしてってくだせぇ

非日常の中でも変わらないこと

前回の記事。

https://geta-hossan.hatenablog.com/entry/2024/02/10/071301?_gl=1*gwuafm*_gcl_au*MTA0NDYwOTMyMC4xNzA3Nzk0MTY1

きっと↑を読む人はいないと思うので、要約すると、

・同じ日常が続いてネタがない。
・ならばネタを見つける定石として、①意図的に変化を作るか、②日々の中の変化に敏感になるか。をしてみようか。
・いやまて、同じ日常の中に変化を設けるのではなく、
ここで敢えて意図的に全く同じ日常を過ごしてみたらどうだ?そこに違いが浮き出てくるのでは、って考えて。
・んで「さあ、日常を!」と思っていた矢先、大雪が降って否応なしに非日常に引きずり込まれたのだった。
って話。

そこで非日常なりに大雪の中で考えたが
日常が同じ、言い換えれば
発生イベントのインパクトが弱い中を過ごしている中では、『その中で、いつもと違うこと』に目を向けることがよくある。
ならばイベントのインパクトが強い場合は、逆に『その中で、変わらなかったこと』に目を向けてもいいのかもしれない。

大雪の中で普段の生活と変わらないところは何だろう。
ご飯がおいしい
コーヒーもおいしい。
あったかいのは嬉しい。
滑るし、道幅狭くなるけど変わらず運転は楽しい。
お菓子隠れ食いしちゃう。
スマホ見ちゃう。
夜にやろうとした用事をすっかり忘れる。
今年の手帳も比較的白いまま。
夜は眠い。
非日常のときこそ癖が色濃く出るのかもしれない。

『同じ毎日』と思っちゃう癖

2ヶ月ぶりの更新。

ネタがなかったのだ。

毎日同じ暮らしをしているので新しいこと、変わったことがない。だから書くネタがないのだ。

この手の雑感系のブログではよくあることである。

弾が切れたり繁忙期とかで、一時的に思いを巡らせたり執筆更新する習慣が切れて放置してしまい、そのまま最終更新日が数年前というブログはよく見かける。

そう、ここも例に漏れずそうなりかけている。

一応、なんとかしたいなぁという気持ちもあり、

『同じ日常でネタがない』状況にどう対処すればいいか考えてみた。

よくある対処は次の2つだと思う

 

ひとつは

『同じ日常を変えるために、意図的に変化を持たせてみよう!』

いつもと違う道を通るとか、知らない店に立ちよるとか、新しい趣味をやってみるとか

これは同じ日常という『事実』に対する対処。いわばイベントの強化

 

もう一つは、

『意識すると変化はたくさんある。その小さな違いに目を向けていこう』

同じ日常というのはある種思い込みで、実は大小さまざまな変化に満ちている、それを拾っていこうという考え。

これは同じ日常という『意識』に対する対処。要は感度の強化。

 

いずれにしてもこれらは『同じ日常』に対してどちらかというと否定的な視点、変化を良しとする視点での話をしているように思う。

 

じゃあ「同じ日常」をまずは肯定的にとらえてみたらどうだろう。

昨日とまったく同じ一日を過ごしたとき、本当に自分の中でそれがネガティブなものになるのか。意外と快適かもしれない

そして全く同じ日常に試みようとしても、発生イベント、考えや発想の違いはどうしても生じるものだろうか、だとしたらそれはどんなものか。

嫌でも感じることができるかもしれない。

昨日と異なるイベントをゼロにしようとすることで、結果的に感度を最大限上げる作戦だ。

 

手始めに2日間だ。まずはベースとなる日常を過ごし、その中で自分が何をしたかの記録をしよう。

起床時間から始まり、家を出る時間。昼ご飯のメニュー。雑談をした人とその内容。

通勤路や出社と退社時刻。休憩時間の過ごし方、聞いた音楽などなど。全部記録しとく。

そしてその翌日は上記事項について極力同じく過ごす。ロボットのように。

意図的に変化をなくすことで逆に、イベントや小さい変化をはじめ、考えの違いについて感度が高くなるのではないだろうか。

これはワクワクする。

さぁやってみよう!

・・・

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と思ったら雪。

大雪。

状況がイレギュラーすぎて普通に過ごしていても日常とかけ離れてしまう。

というわけで、この試行。雪解けしたらね。

『なるべく裸でいたい』癖

なるべく裸でいたい。

持ち物の話。持ち物にカバー類をつけずに持ち歩きたい、ということである。

 

実際、今もってるスマホもパスポートもカバーはつけないし

紙のチケットなんかも胸ポケットにそのまま入れている。

 

カバーをつけないことはかっこいいと勝手に思い込んでいるふしがある。

「カバーをつけなくても傷つけずに扱えますよ」、という上品さ、丁寧さを醸し出せると同時に

仮に傷がついても「キズなんか気にしないぜ」という豪胆なヒトを気取れることもできる。

どちらに転んでもそういうスタイルの人なんだなと思われるので損はしない。

しかもモノが増えるのを防ぎ、持ち物がすっきりするメリットがある。

 

もともと持ち物は少なくしたい性分で

大学時代は携帯も財布も持たず、家の鍵もそこらへんに隠してバイトに行っていた。

持ち物があっても荷物はなるべく少なく、かばんは小さく。

身軽でいることが楽だし、モノに依存していない雰囲気が好きなんだ。

必要最低限のものでいいじゃないか、シンプルにいきたい。

いうなれば刀一本、他には何も持たない潔い武士のようなものをイメージしている。

そう、僕は武士なんだ。武士になりたいんだ。

 

とはいえこのスタイルが許されるのは、

持ち物を破損しない、なくさない。そういう最低限の行動がとれる人だけという話で。

 

自分の場合、社員証もストラップなんかつけないでプラスチックカードの社員証を裸でポケットに入れて携帯しているのだが、これをよく忘れる。

前日のズボンのポケットに入れたまま出社してしまい、総務部に仮の入構証を借りるのである。

もはや必要最低限に及んでいない。

刀を忘れる武士である。

誰でも善人になれる方法

僕は性根が暗く陰湿なので、

マナーやルール違反をした人がいてもその場で注意することはせず、

「後で罰が当たればいいのに」と願うタチである。

ポイ捨てする人を見たら、ある日突然その人のうちのダイニングテーブルに、その人がこれまでポイ捨てしたものが一斉にドカッと降ってきてくれないかなとか。

飼い犬のフンを片付けない人がいたら、その人の乗る車のシフトレバーの溝に、残していったフンがこすりつけられればいいのに、とか思う。

 

これはさすがに暗いなぁと思うも、正直な気持ちとして湧いてきてしまうので仕方がない。

無理に感情を押さえつけるのは毒だし、この流れに逆らわないように生きている。

 

その代わり逆のことを考えるようにした。

善行を行った人には「後でいいことが起こればいいのに」と思うようにするのである。

何かお願いしたことをやってくれたり、共有物を整理してくれたり、道を譲ってくれたり。

してもらってうれしかったり、気持ちよかったりした時。

「ありがとう」と言ったり思ったりするのに付け加えて、

『あなたにいいことが起こりますように』と念じるのだ。

道がきれいに清掃されているのを見て、「おぉ道がきれいだ。」と感嘆し、「掃除してくれた人ありがとう」と思う。それプラス、「道をきれいにしてくれた人、あなたにいいことが訪れますように」と本気で願う。

するとどうでしょう、こうすることで、自分が他人の幸せを願う心の広い善人になったように感じるではないか。

自分としては身も銭も削らず、何も動いていない。

ただ「私によくしてくれた分、幸せが訪れますように」と願っているだけ。楽なもんである。

それだけで自分も善人になっているように錯覚してしまう自分。

性根が暗いだけじゃなく、腐ってるのかもしれない。

好奇心とめんどくささのはざまにいる

好奇心がある人にあこがれる。
「好奇心がある」という言葉には、偏見がない、柔軟な考え、吸収する意欲がある。新しいことに対して前向きというポジティブな印象があり
その先にも、成功や成長の可能性が広がる期待がある。
それになんとなく、「好奇心のある人」という人には無邪気というかキラキラしている感じがする。生命感が感じられて魅力的なのである。
そんな風に自分もなりたいという気持ちはある。
 
しかしながら、好奇心を向ける対象というのは未知であるものがほとんどであり、
未知、知らない。つまりこれから学ぶことが多いことになる。
何かに興味を持ち始めたところに、ちょっとしたきっかけで学ぶ内容の奥深さを垣間見た時に、
その裏には自分の想像以上の未知の世界とその世界を理解するための知識が広がっているのを感じとれてしまう。
新しく広い世界を前にすると
「好奇心」という言葉のキラキラした印象とは対照的な、
「学ぶべき知識」には海底のヒビの中に見る終わりの見えない暗やみをも感じてしまう。
この暗がりを泳ぐエネルギーがあるのかと自問すると率直なところ「ちょっとしんどいな」と感じるのだ。
これからこの知識の海に潜り、新しいものを得るために深度を下げて探検をするのかと思うと、そこに飛び込むこともできないでいる。
 
結局はコンフォートゾーンを抜け出せないでいるのである。
ここで好奇心(に対する憧れ)とめんどくさいのはざまでゆれる。
コンフォートゾーンを抜け出さないと自分に成長はない。
 それはわかっている。
そしてそこを抜け出して前に進める人はかっこいい。
 それもわかっている。
もっと言うと、一番かっこいいのはコンフォートゾーンという概念がそもそもなく、
「好奇心」というエンジンでどこまでも前に進めてしまう人である。
 それも知ってる。できりゃそうなりたいよ。
 
でも相変わらず、新世界の海に飛び込む度胸も気力もない。情けない話。
せいぜい浮き輪をつけて、ぱちゃぱちゃシュノーケルで水面から海の中を眺めてる程度である。
シュノーケルをのぞくと、水面から見える範囲の浅い知識のほかに、意気揚々と海底に向かって潜っていく人達が輝いて見える。
 
自分の乗っているこの浮き輪、どこで買ったんだろう

「スピードよりクオリティ」癖

質と早さ、両立できるのが望ましい。言うは易し。
小中学生の頃はむしろスピード重視、そそっかしいと言われようと多少ミスがあろうと、なんでもすぐに終わらせた。
提出期限の直前に仕上げるということはほとんどなかった。「早く終わらせて遊ぶ」という大目標のために課題が与えられたらすぐに取り組む癖があった。
ところが高校くらいから質の高める方向に価値を置くようになっていた。そうなったのはおそらく映画監督の影響。
一時期、映画鑑賞を趣味としていた時代があり、その映画をつくる映画監督の姿勢にあこがれていた。
脚本に衣装やセット、CG、現場のカメラワークや役者の立ち回りに至るまですべてを完璧にする完璧主義者。まるでスーパーマンだ。
かっこいいと思い、自分もそうしたいと思った
しかし問題がある。完璧にする方法がわからないのだ。どこをどう意識を傾けることが完璧につながるのかわからない。だからミスや粗をなくすために、注意深く進めるという方向性をとる。
注意深く進めるために時間をかける。でも時間をかけるにしても、どの部分にかければわからない
下手な時間のかけ方をしてるので、成果物のクオリティはたいして上がらない。
しかし質を上げたいという気持ちは変わらないので、段々と無意識のうちに「質を上げる」→そのために「時間をかける」、という関係性ができてしまう。
そしてさらに、何をやるにも「時間をかけて質を上げる」ことを考えが定着してくる。
こうなると「何かに取り組む」→「時間をかかる」→「エネルギーを使う」というイメージもできてしまい、しだいに「億劫」「めんどくさい」、「気合が必要」という負のイメージもつきまとい、腰が重くなる。結果取り組むタイミングが遅れる。
スピード(特に初速)が低下していき、かといってクオリティ自体は一向に上がるわけでもない。
かくしてスピードも質も低いアウトプットを輩出するニンゲンが出来上がる。
 
この仕事の姿勢、もしそば屋をしてたなら
 
過去の自分なら、注文が着次第、間髪入れずそばを打ちゆでて、地図を見るのもそこそこに岡持ちにソバを乗せすぐに自転車をかっ飛ばしていたはずである。旨いかはわからない、ただし早い。
 
一方現在の自分の場合、出前の連絡を受けた後、おいしいソバの打ち方を考えて、時間ぎりぎりできあがったら、そこから地図とにらめっこし最適(のつもり)のルートを考える。
そのあと配達車の揺れがないように整備して、着ていく服なんかも吟味、あれこれ準備を時間かけてると時間は過ぎてしまう。
出発が遅れながらも車に乗り込んだと思ったら、省エネ運転でトロトロ進んでいく。しかも途中でコーヒーを買いにコンビニに寄る始末。
ひどいときは、そのコンビニで雑誌を立ち読みしながら「どこでもドアがあれば早く着くのになぁ」ってぼやいてる。
そのうち、お店のカギをかけ忘れたことに気づいて、戻ったりするぞ。
 
こう書いていると、自分の仕事はだんだんクオリティやスピード以前の問題のように思えてきた。
「おいしいお蕎麦を早くお届けしたい」という精神がそもそも失われている恐れがある。
スピードやクオリティの前に、「熱」がないのかもしれない。

「手帳を上手く使えこなせない」

来年の手帳を買った。

ウィークリータイプの、見開きで左半分は一週間の予定、右半分は罫線が引かれた自由に書き込めるタイプだ。

かれこれ7年くらいはこのタイプにしている。

 

去年の暮れに買った今年のも当然そのタイプ、だけど。

開いてみると右半分は空白ページが目立つ。というか左もそんなに埋まっていない。

ちゃんと書き込まれているところと言えば、最初の数ページにある月間カレンダーのページくらいだ、それも予定がちらほら書きこまれている程度である。

このままだと、今年もこの大量の余白を残した紙の束を捨てることもなく、去年までの手帳達の上に積み重ねることになりそうである。

僕は手帳を使うのが絶望的にへたくそなのだ。

 

1月くらいはその週に思いついた考えをまとめたり、メモを視覚的にしてみたり、なんとか工夫をして予定と日々の記録の両立を図ろうとしているものの

やはり長くは続かず。2月くらいで書かなくなってしまう。

 

書店に行けば、「手帳活用術」「できる人の手帳の使い方」なる本や雑誌の特集なんかが数多あるわけだけど、

自分にあったやり方を自分で見つけたいという意味のない意地と、

雑誌の特集で取り上げられている書き方を真似ている自分を意識してしまい、なんとなくこっぱずかしい気持ちになってしまう。

できないくせにプライドが高いので、ちっとも手帳術が上達しない。

おまけに生意気にも仕事とプライベートの手帳は使い分けたくなるタイプで、

仕事のはどっかのノベルティのノートを使っているので、余計プライベートの手帳は書くことがない。

多分、1週間過ぎたら白紙のまま次のページに移っちゃうこのタイプの手帳も、絶妙に自分の性に合っていない。

 

でもやっぱり手帳をうまく扱えている人には憧れてしまうのである。

アイディアを言語化したり、思考をビジュアル化したり、Todoリストなんかうまく活用しちゃったりしてさ。かっこいいよね。

そうか、ここで書くネタを書けばよいのか。

と思いたち、書く内容やどんな表現がいいか、考えながら、

おもむろにiPhoneを手に取り、打ち間違えながらメモアプリの画面をポチポチ叩いていた。

 

週が変わり、また余白を残したまま手帳は次のページに進む。